“都”の入った文の否定文

Q:“都”の入った文の否定文はどうやって作るのですか?
A:これは2種類の作り方があり、それぞれ意味が異なります。
“都”+否定の副詞=全否定
例えば、
我们都是日本人。(私たちは全員日本人です)
我们都不是日本人。(私たちは全員日本人ではありません)
この場合は、「私たち」の中に日本人は一人もいません。つまり全員が日本以外の国籍の人ということになります。
否定の副詞+“都”=部分否定
例えば、
我们都是日本人。(私たちは全員日本人です)
我们不都是日本人。(私たちは全員日本人というわけではありません)
この場合は、「私たち」の中に日本人もいますし、日本以外の国籍の人もいます。

“也”の入った文の否定文

Q:“也”の入った文の否定文はどうやって作るのですか?
A:“也”+否定の副詞の語順になります。
例えば、
我也是日本人。(私も日本人です)
我也不是日本人。(私も日本人ではありません)
我也去。(私も行きます)
我也不去。(私も行きません)

-nで終わるか、-ngで終わるか?

Q:-nで終わるか、-ngで終わるか、すぐ忘れてしまいます。どうしたらいいですか?
A:日本の漢字の音読みを使って区別する方法があります。音読みですよ!訓読みではありません。日本漢字音で読んで「-ン」で終わるものは、中国語でも原則的には「-n」で終わります。
(例)xìn シン
(例)xìng セイ
(例) fàn ハン
(例)fàng ホウ
日本語の漢字の音読みは、当時の中国語の音を日本語の音で記録したものですが、長い年月の間に本家本元の中国語の音も変わってしまいましたし、日本語の音も変わってしまいました。しかし、この「-ン」と「-n」の対応関係は現在でもよく保存されています。

あなたは何年何月何日生まれですか

Q:教科書に
“你是哪年生的?”
Nǐ shì nǎ nián shēng de?
(あなたは何年生まれですか)
と、
“你的生日是几月几号?”
Nǐ de shēngri shì jǐ yuè jǐ hào?
(あなたの誕生日は何月何日ですか)
というのがありました。
では「あなたは何年何月何日生まれですか」ってどう言うのですか?
A:訳すとすれば以下のようになります。
你是哪年哪月哪日出生的?
Nǐ shì nǎ nián nǎ yuè nǎ rì chūshēng de?
但し、何か特別な事情や理由がある時は別として、普段の会話でこういう尋ね方をすることはまずないそうです。人によってはこう尋ねられると「警察の尋問みたい」という印象を持つこともあるとか。

反復疑問文

Q:〜吗?の疑問文と反復疑問文はどう違うのですか?
A:これについては以前別のブログに書いたことがありますので、それを参照してください。
余談ですが、この人、中国人じゃないかしら?と思って「あなたは中国人ですか」と声をかけたい時には、
你是中国人吗?
の方がふさわしいと思います。予想があった上で尋ねるのですから。
この場合、予想もなく白紙の状態で肯定か否定かを尋ねる反復疑問文を使って
你是不是中国人?
といきなり言うと丁寧さに欠けると思います。

2つの「わたしたち」

Q:教科書には“我们”“咱们”の2つの「わたしたち」という意味の単語が出てきました。どう違うのですか?
A:“咱们”の方は話し手と聞き手を必ず含んだ「わたしたち」です。話をしている“我”(わたし)“我们”(わたしたち)と、話を聞いている“你”(あなた)“你们”(あなたたち)を含んでいるのです。
“我们”は話し手と聞き手の両方を含んでいるときもあれば、含んでいない時もあります。
たとえば、教室に学生さんとわたし(教員)がいます。学生さんの一人がわたしに向かって“咱们”と言った場合、必ず学生さんたち+話を聞いている側であるわたし(教員)も含まれます。したがってこの状況では“咱们都是学生。”(わたしたちは全員学生です)とは言えないことになります。わたしは学生ではないですから。
同じ状況で学生さんが“我们”と言った場合には、学生さんたちだけを指していて、話を聞いている側であるわたしが入っていなくてもOKです。したがってこの場合“我们都是学生。”は言えることになります。

「の」があるのに、どうして“的”は入らないのですか?

Q:教科書に“汉语老师”(中国語の先生)とか“篮球比赛”(バスケットの試合)という言葉が出てきました。日本語には「の」が入っていますが、中国語は“的”は無くていいんですか?
A:結論から言うとそうです。
最初に“她的笔记本”(彼女のノート)のような例を勉強したので、皆さんの頭の中には“的”=「の」という公式ができているのだと思いますが、日本語の「の」があるところに必ず“的”があるわけではなく、また逆に日本語には「の」が必要ないのに中国語では“的”が必要ということもあります(これについてはもう少ししたら出てきます)。
代名詞や名詞が名詞を修飾するとき、
代名詞+“的”+名詞
名詞+“的”+名詞
は、基本的には「所有」を表します。
“她的笔记本”(彼女のノート=ノートの所有者は彼女)
“图书馆的书”(図書館の本=本の所有者は図書館)
今回の質問の例を見てみると、名詞が名詞を修飾していることには変わりがないのですが、
「所有」ではなくて、前の名詞が後ろの名詞の「属性」(内容や性質、種類など)を表しています。こういう場合は“的”を入れません。
“汉语老师”(中国語の先生)
“篮球比赛”(バスケットの試合)
「中国語」や「バスケットボール」は、「先生」や「試合」の所有者ではありませんね?いろいろな科目の教師がいる中で中国語を教えている先生、さまざまなスポーツの試合がある中でバスケットの試合という意味です。

2種類の「お父さん」の言い方

Q:教科書に“爸爸”という言い方と“父亲”という言い方が出てきました。両方とも「お父さん」という意味だと単語表に書いてありましたが、全く同じ意味ですか。
A:子供のいる男性を指しているという意味では同じです。
(例)我父亲是律师。(私の父は弁護士です)
   Wǒ fùqin shì lǜshī.
(例)我爸爸是律师。(私の父は弁護士です)
  Wǒ bàba shì lǜshī.
しかし、使い方には違いがあります。
“爸爸”は直接お父さんに対して呼びかける時に使えますが、“父亲”はできません。これは日本語に似ています。日本語でも「お父さん、はやく行こうよ!」と呼びかけることはできても、「×父、はやく行こうよ」とか「×父親、はやく行こうよ」と呼びかけることはできませんね。
なお、子供のいる女性を指す言葉である“妈妈”māma“母亲”mǔqinの違いも同様で、“妈妈”は呼びかけの言葉にできますが、“母亲”はできません。

「勉強する」という意味の2つの単語

Q:月曜日の教科書と水曜日の教科書に「私は中国語を勉強します」という意味の中国語が出てきたのですが、片方が“我学习汉语。”で、もう片方が“我学汉语。”でした。“学”“学习”は同じですか?
A:何か具体的な物を目的語にとって「〜を勉強する」という時には互換性があります。しかし、“学”と“学习”は全く同じ意味であるということではありません。もしそうなら、どちらかが淘汰されてなくなってしまうでしょう。何か具体的にこれを勉強するというのではなく、漠然と勉強するという時には“学习”しか使えません。
我喜欢学习。(私は勉強するのが好きです)
Wǒ xǐhuan xuéxí.
×我喜欢学。
また“学”には「まねをする」という意味がありますが、“学习”にはありません。
こういった中国語の類義語を集めて解説した本があります。お勧めです。
相原茂・荒川清秀・大川完三郎・杉村博文編『中国語類義語のニュアンス』(東方書店 1995年)
相原茂・荒川清秀・大川完三郎・杉村博文編『どうちがう?—中国語類義語のニュアンス2』(東方書店 2000年)
“学”“学习”については『どうちがう?—中国語類義語のニュアンス2』の方に載っています。私の解答もこの本の記述を参考にしたものです。

中国語で「酒」と「九」は同じ発音でいいんですか?

Q:中国語では同じ発音でいいんですか?
A:はい、同じ発音です。
jiǔ
jiǔ
皆さんはまだ中国語を始めたばかりで知っている単語が少ないため、一つの音声=一つの単語という印象を持っているのでしょうね。中国語に限らず、どんな言語でも同音異義語(同じ音で意味の違う言葉)があります。そうでないと限られた音声の数で多くの単語を表すことができません。
同音異義語があっても、実際の発話の中や文の中に入れば、どちらの単語を使っているのか、前後の文脈や発話の状況からわかります。
日本語を例に取ってみると、
アメガフルと言った時の「アメ」は普通は「飴」ではなく「雨」であると考えられます。
雨が降る。
?飴が降る。
「飴が降る」という可能性もないわけではないでしょうが、特殊な文脈が必要でしょう。
同様のことが中国語にも言えます。
質問をしてくれた学生さんがこんな疑問を持ったのは、授業で中国語の数字の言い方を勉強したその翌週か翌々週に、私が3声の声調変化を説明するために、
我买酒。Wǒ mǎi jiǔ.(私は酒を買う)
という例文を出したからでしょう。
そこで恐らく、「じゃあ九つ買うんだったら“我买九”となるんじゃないか、区別つかないぞ」と思ったのでしょう。
中国語で「私は九つ買います」は以下のように言います。
我买九个。Wǒ mǎi jiǔ ge.
中国語の数詞の後には量詞(助数詞、数える言葉)か量詞に相当する単語が必要です。geは数ある中国語の量詞の中でももっとも適応範囲の広いもので、人を数えたり専用の量詞のない物を数える時に使います。